当事者ゆえに

昔、バイト先で男の子が


アジア人は日本人以外

いらないと思う


北朝鮮の人の動きがキモい

みたいな発言をした時


「生まれた時から

一つの情報しか

与えられてなかったら

誰だってそうなるよ」

と言ったら、


上司に

「岩田さん、もういいから」

と止められた。


それを聞いていた同僚の

コリアンジャパニーズの女の子が


あの上司は、

岩田さんの発言だけ止めた。

差別発言は止めなかったのに。


岩田さん、人間として好きです。

と言いに来てくれた。


私は、前の旦那さんを通して

ブラックの人が

どれだけの命と世代をかけて


自分たちの誇りを取り戻すために

戦ってきたのかを

少しだけ感じていたので


日常の、些細な会話だからといって

差別的な発言を

流すわけにはいかない

と思っていた


日々の、こうした

何気ない会話の中で

私たちの「あたりまえ」は

作られていくから



でも、今回(ひとつ前の記事)

未熟な人間といわれて

何も言えなかった


それは、自分が

当事者だったからだと思う


もちろん、人種と


独身とか子どもとか

人生における状況は

違うものだし


状況は変えられるのだから

努力して変えなさいよ

ということだと思う


でも、子供がいるかどうか

ということは


年齢や身体

パートナーが異性かどうかなど


人種と同じくらい

変えられないものだったりする



人のことだと、

堂々とかばえるけれど


自分のことを主張するのは

難しいな


同僚の女の子も

あの状況で

自分で言うのは

難しかったと思う


なんでだろう


当事者の方が

自分ごととして

言っていいはずなのに


自己主張をひかえる

アジアの文化なのかな


いや、当事者だからこそ

なんだと思う



差別的な発言を聞くと

当事者は


その言葉の破壊力に

一瞬、力を奪われる


自分の中にある

誇りや

自己肯定感が

ゆらぐ


時間をおいて

冷静に考えると


相手への反論も

浮かんでくるけれど


もう一度

自分自身に

力を取り戻すには


少し時間がかかるんだ