自己探求としての、畑。

パーマカルチャーの合宿から帰って

最初にやろうと思ったことは


毎日のごはんを

ちゃんとつくることと


小さくても

畑をやることだった


講義ではなく

雑談の中で語られ

学んだこと



畑はまっさらなスペースで

自分でどうにでもできる


自分主体で

放っておくこともできるし

その場所に

価値を与えることもできる


その中で

トライアンドエラーを繰り返す


自分がやったことが

そのまま帰ってくる

それを自分で見る


そこに虫や、天候など

想像していなかったことが

起きる


それにまた、

どのように対処していくのか


そこに自分の性格の癖がでて

自分自身を知ることになる


言葉で学ぶときは


その言葉の意味を知っているから

もうわかった

知っている

と自分の中で処理してしまう


人と語るのも大切だけれど

言葉がない分だけ

自然からの語りかけは

むしろ深く入る



自然の中で経験することは

今までなかったことも多いから


既存の情報の中では

処理できないものが多い


だから、自分で考えて

その答えを自分で見つける

必要がある


情報や

自分が知っているつもりに

なっていることが

ぜんぶ問われる


実態と言葉というものが

ひとつになっていく



自然というものは

一瞬も止まっていない


だから、

種を植えて

収穫までの時間


そのプロセスや

かかっている時間のなかに

気づくべきことが

たくさんある



Amazonで欲しいものを

注文すると

望んだものと

手にするものは

まったく同じ


現代の人は

望んだものと同じものが

与えられるということを

あらゆる部分で望む


それが少しでもずれていると

ストレスになり

クレームをつける


でも自然は

大きいトマトができたり

小さいトマトができたりする


でも、小さいトマトの方が

甘くて美味しかったり

満足度が高かったり


自分が予想していたのと

まったく違った形で

自分の満足というのがやってくる


自然は想像を超えてくる

それが

自分を広げることにもなる


一見ムダと思えることも

自然の中では

ちゃんと役割がある

ということを学ぶ


だから

畑をやっていると

優しくなれる



畑は自分自身の反映だから

ある意味怖い


自分が今

どういう状態なのかを

教えてくれる

リフレクションとしての畑



たまに電車に乗ると

乗っている人の9割方は

精神的にどこか

崩れてしまっているように見える

顔を見ても、行動を見ても


既存の常識とか

脅迫感から逃れるには

畑に向かって

作物を育てるのがいい


概念の評価

価値判断から


経験を通しての

主体的で

体感を伴った

自由な学びへ



畑はすべてを

受け入れてくれる



自分を知るための、畑